あるサラリーマンの物語

第1章 「旅の始まり」

1.出張

今日の仕事は特別忙しかった。
朝7時から休憩なしで22時まで。
月曜から既にこの忙しさ。これが金曜まで続く。
ここは愛知県の某自動車機器メーカーの設計室。
僕の仕事はホンダ車用カーエアコンの開発。ハッキリ言ってきつい。
この仕事を辞めたいと思ったことも何度かある。

「水谷君、ちょっと。」
課長に呼ばれた。いやな予感がする。
「明日の打ち合わせで使うサンプルがトラック便の最終に間に合わなかったんで、
研究所まで今すぐ届けに行ってくれないかな?」
「今からですか?」
明日は朝から研究所で打ち合わせがある。係長と先輩が出席する予定で、
既に宇都宮市内のホテルにチェックインしている。
ここでいう研究所とは、本田技研栃木研究所(通称HGT)のことである。
朝一の打ち合わせに間にあうには、ぼくの車で行くしかない。
「君の車ならすぐだろう?最近休暇を取ってないようだから、打ち合わせが終わったら
午後はそのまま休んでいいからさ。」
そういうことか。それなら構わない。
「では、すぐ向かいます。」
「宜しく頼むよ。」


2.宇都宮へ

23時。出発。
三好インターから東名に。
ここが会社から一番近いインターだ。
僕の車なら、道さえ空いていれば本田栃木まで4時間弱で行ける。
ドイツ製のコンプリートカー、アルピナB3−3.0/1。

ずっと前から欲しかった車だ。
念願かなって去年の暮れに96年式のB3−3.0/1を購入。価格は僕の年収の約1.5倍。
4年に1回触媒を替えたり、2万kmでタイヤ交換したり、オイル代に一回3万円(7.5リッター)を
要したりと、維持費は尋常ではない。

それでも買って良かったと思う。
この車のステアリングを握っているとき、僕は本当の自分を取り戻す。
この非日常的な速度域に居るとき、僕は自分の存在を再確認できる。
この瞬間が、僕の時間。誰にも干渉されない、僕だけの時間。
ぼくだけの時間

200km/h超で静かに走る車の中で、明日の打ち合わせ内容を確認する。
現在開発中のワゴン車。開発コードAL。車名アバンシア。99年9月、ラインオフ予定。
開発初期の課題点はほぼ解決し、現在のところ品質問題等は特になし。
明日の打ち合わせは、実車確認の立会いだけなので午前中には終わる。このサンプルは最終検証用だ。

午後は久しぶりの有休。箱根のワインディングを堪能するも良し、
秋葉原を歩くも良し。たまにはこんな出張も悪くないな・・・


3.濃霧

24時10分。厚木インターを過ぎたあたりで、「この先キリ走行注意」の電光掲示板が目に入った。
ここでペースを落とすと宇都宮に着くまで体がもたない。晴れてる区間で時間を稼ごう。
5速5800rpmで240km/h。6300rpmで250km/h超。見た目は只のBMWだが、ボディの補強は万全なので
このペースでもステアリングは片手で充分。遅い車は左から容赦なく追い抜く。
前方の彼方に濃い霧が漂っている。中で渋滞している可能性が高い。即ブレーキング。
霧の渋滞
案の定、霧の中では渋滞。
下品なスリップ音を立てることもなく、数秒で50km/h台に減速する。

しばらくすると霧は晴れた。ペースを取り戻すべく、加速。
渋滞集団を抜けると、スカスカに空いた高速道路が目の前に広がる。

妙だ。
自分以外の車はなく、道路はまるで貸切り状態。
さらにペースを上げる。0-100km/h加速6.2秒の実力は半端ではない。
しかし、250km/h超で走っていても、前に車が1台も走っていない。

いつもこの時間はトラック便が隊列を組んで走っていたりするのだが、それが1台もいない。
前方にさっきよりも濃い霧。また減速。
今度の霧は前方視界がまったくのゼロ。歩くような速度でしか進めない。
しばらくすると、霧が青白く光り出した。車の表面に沿って光っている。
こんな現象は見たことがない。

突然、警報が鳴った。メッセージは「ENGINE CONTROL FAILURE」。
エンジン制御システムが異常をきたしている?・・漠然とした不安が僕の頭の中を支配しはじめる。
これは只の霧じゃない。何かに巻き込まれる予感がする。
「早くここから出ろ!」本能がそう告げた。
霧の中に入る前の状況から、周囲に車が居る可能性はゼロとぼくは判断した。
強引に加速。この霧から出るのが先決だ。

レッドぎりぎりの6900rpmまで引っ張ってシフトアップを繰り返す。
今のところエンジンが異常を示す兆しは全くない。調子はさっきと同じだ。
すると、壊れたのは診断システムか?
アクセルを床まで踏んだ。この車にとって、それはスピンしかねない危険な行為だということは充分判っている。
でも今は、そんな事言ってる場合ではない。早くこの霧の外へ出たい。
本能が訴えつづける。ここにいては危険だと。


4.事故



・・・・・・・!!!
突然、鋭い光が視界を奪った。
対向車か!?そんなはずは、でも・・・避けきれない!
ドン!・・・何かに跳ね飛ばされたような強い衝撃。直後、真下に落下したような軽い衝撃。
車はスピン。制御不能、止められない。

ブレーキを必死に踏み続け、カウンターステアをあてながら考える。
・・・・車は何かにぶつかった。ではエアバッグが作動しなかったのはなぜだ?
あれほどの衝撃にもかかわらずガラスは割れてないし、ボディは潰れてないようだ・・・・
しかも、こっちが跳ね飛ばされた・・・・・
一体、何が起こったんだ?・・・・・


5.静寂



車が止まるまでの時間は、途方もなく長く感じられた。
実際には10秒程度だろうが、ぼくにはもっと長いように思えた。
鋭い光はようやく収まり、周囲の光景が徐々に見えるようになってきた。

時計は今午前1時。しかしこの明るさはどう見ても早朝である。
確かにここは東名高速のようだが、路面がひどく傷んでいる。
まるで何年も使われてないみたいに。
彼方に見える建物は、どれも数十年以上放置されているように朽ちている。
しかしよく見ると、それらの建物は、10階建てのマンションだったり、
30階建ての近代的なオフィスビルだったりする。

そして、僕の車以外ここには1台の車も走っていないし、人の気配もない。

車を降りて、ダメージを確かめる。
外装、足回り、どこも壊れていない。衝撃を受けた跡はどこにもない。
何気なく自分の車のスリップ痕が目に入った。
50mほど続いているスリップ痕は、僕の車がそこからスピンし始めた事を示している。
しかし、スピンしたときの速度は150km/hを超えていた。50mでは短かすぎる。

さらによく見ると、スリップ痕が始まっている場所に、新しい引っかき傷が何本かついている。
車をもう一回見る。アンダーパネルに傷がついていた。ジャンプの着地時につくときの傷と同じだ。
特注のサスペンションがフルボトムしてフロアに傷がつく・・・
50cm近い高さから落下しないとあり得ない。

スリップ痕と傷跡、放置されて数十年になる近代建築物・・・・
私は車ごと別の世界に来てしまったのかもしれない。同じ場所だが違う時代に・・・・

ガソリンはあと200km分くらいはある。とにかく町を探そう。
栃木研究所に渡すユニットは、ここがホントに違う時代なら、もう届ける意味は無い。

とにかく次のインターまで行こう。そして町を探そう。


6.夜明け

横浜インターから高速を出る。料金所は撤去されていた。ここにも人は居ない。
しかもこの道路は、もう長い間使われていないらしい。
廃墟のような建物群。人の気配は全くない。国道16号で町に向かおうと思ったが、
「この先路面崩落のため通行不可」

仕方がないので、横浜横須賀道に向かう。この道路も随分荒れている。

しばらく走るうち、ようやく朝日が顔を見せ始めた。今が夏なら午前5時くらいか。
だれかに会うまでこの道を走って行こう。
分岐・先へ
朝比奈IC
「路肩崩落のため降りられません」−次へ行こう。

横須賀ICに至っては、上り線まで崩落しているらしく、対面通行になっている。そしてここも降りられない。

衣笠IC。事実上の終点。「この先通行止」のバリケードがある。
仮設のランプウェイで恐る恐る降りる。
横浜から途中下車できない一本道の終点。利用者がいないのも納得。

しかしこの荒れようは尋常ではない。何があったんだ、一体・・・
ぼくの記憶にある道路が荒れているということは、ここは未来なのか?
だとすると、見た感じでは少なくとも30年は経っていると思う。


7.港町

しばらく走ると、小さな港に出た。車を降りて、少し歩き回ってみる。
人影が見えた。のんびりとした港の日常がそこにはあった。
ちょっと昔に戻ったような、懐かしい雰囲気。しかし、明らかに僕の時代とは違う。
はっきりとは言えないが、ぼくの存在がどことなく場違いなのだ。
久里浜港

今が何年の何月何日か、今は自分の時代から何年後なのか。
そして、この時代に至る経緯・・・聞きたいことは、たくさんある。
しかし、聞く相手を慎重に選ばないと、騒ぎになりかねない。

そういう目で見ると、今僕の見渡す範囲にいる人達にはちょっと聞きづらい。
学識のある人じゃないと、真に受けてはくれないと思う。
ぼくは再び車に乗った。


8.診療所

海岸線を南下していくと、古い木造の建物が見えて来た。
診療所
門には「子海石診療所」。どうやらお医者さんらしい。
ここなら話ができそうだ。診察時間は午前9時からとある。たぶん今は7時位なので、あと2時間はある。
車に戻って仮眠を取ろう、と思ったら、疲れからか、急に気分が悪くなってきた。

車まで戻ることもできない。玄関に座り込む。
だんだん意識が遠くなってきた・・・・・そういえば、もう20時間以上休んでいない。おまけに
真夜中の事故のあと、着いた先が早朝だったから、時差ボケ状態になっているかも・・・・・


9.子海石先生

・・・「あら、気がついたわね.気分はどう?」
「ここは・・・診療所の中ですか?」
「ええ。朝玄関を開けようと思ったら、玄関先に人が倒れているんでびっくりしたわ。
おまけにネクタイなんかしてるでしょ。そんなのする人はここ何年も見たことなかったから・・・・
ところでどこから居らしたの、この辺の人じゃないようだけど?」

「このあたりに来るのは初めてです。実は名古屋から宇都宮へ行く途中で事故に遭いまして、
そのあとの出来事がぼくの理解の範囲を超えてまして・・・・」

ぼくは先生に、これまでのいきさつを話した。
真夜中の高速道路、突然の濃霧の中で何かとぶつかり、はね飛ばされたらこの時代に着いたこと、
高速をおりてとりあえず南下していたらここにたどり着いたこと・・・

先生自身は、ぼくの話を一通り聞いたあと、しばらく考えてからこう答えた。

「あなたは、過去からここに来たのかもしれないわ。理論的にはあり得るけど、
実際にあるのね、こんなことが・・・でも、あなたの居た時代の話は私の小さいころの記憶と同じだし、
あなたの乗ってきたあの車はどう見ても新しいけど、この時代ではもう見かけない珍しい型だわ。
つまりあなたが過去からきたことは事実としか考えられないのよね・・・」

「ここは僕の時代から何年くらい経っているんですか?、そして今はどんな時代なんですか?
途中に見えた建物はどれも荒れていて人も住んでいないようでしたし、
僕が走ってきた東名高速は、もう使われなくなってかなり経つようですが。」


10.夕凪の時代

「そうね・・・じゃ、まずはあなたの時代の、その後のお話をしましょう」
先生は、僕の時代からこの時代に至るまでの「ゆっくりとした変化」について話してくれた。

−今は僕が居た時代から約60年後の世界であること−
−50年程前からの地球温暖化に起因する海面上昇、地震を伴う地殻変動と地盤沈降により
主要な都市は水没してしまったこと−
−地球人口の約95%は、「地球をこれ以上傷つけないために」火星コロニーに20年掛かりで脱出したこと−
−最後の一隻はエンジントラブルで大気圏を離脱できず、着陸できる陸地もないため今も静止軌道近くを周回していること−
−そしてハイテクに執着しない一部の人達だけが地球に残り、日々ゆったりとした時間を過ごしながら、
この星が癒えるのを見守っていること−

先生自身はもう50年以上このあたりに住んでいて、若いころはロボットの開発に半生を費やしてきたこと、
現在これらのロボットは約数百体稼動しており、それぞれ自分の意思を持って生活し、良き隣人として人間と
変わりなく生活していることなど、僕には想像もつかないようなことをさらさらと話してくれた。

「そうそう、西の岬に喫茶店があってね、そこにいるアルファさんっていう人もロボットなのよ」
「はぁ・・・すごい時代なんですね、本当に。アルファさんというんですか・・・そのうち会ってみたいですね。」
「そうね、そのうち会う機会があるかもしれないわね。」

そう、ここには時間がいくらでもある。そのうち会う機会もあるだろう。

「ところで、ぼくはこれからどうすればいいんでしょうか?お金持ってないので宿にも泊まれないし、
食べ物もないんですけど・・・・」

「とりあえずウチでいろいろ手伝ってくれれば、あいてる部屋を使っていいし、食事もうちでとればいいわよ。」
「助かります本当に・・・こんなことになって、あてもなくって、どうしようかって途方にくれていたんですよ。
本当にありがとうございます。」

「とりあえず今日はあたりを見て回ってきたら?ここがどんな世界か知りたいでしょ?」
「そうですね。じゃ、お昼には戻ります。・・・ところで、今何時ですか?」
「今は・・・・もうすぐ9時半ね。」
「どうもです、じゃ、ちょっと出かけてきます。」
「行ってらっしゃい」

ぼくは先生からもらった地図を片手に、車に向った。
車に向かう

11.東の町

車に乗って、地図を広げた。このあたりは「佐原湾」と呼ばれるところに近いらしい。
ぼくが記憶している横須賀周辺は、この地図ではほとんど水没している。

主要な国道も、海沿いのものはほとんど使用不能。県道や名前もない道を幾つも
乗り継いでいかないと隣の町へ行くことはできない。
ぼくが走ってきた有料道路は、現在東名高速から直接来れる唯一の道だったようだ。

とりあえず午前中は、先生の病院周辺から半径2キロまでを回ってみよう。
エンジンをかけようとして・・・やめた。
歩こう。
こんな天気のいい日に車に乗るのはもったいない。
時間は、いくらでもあるのだから。

トンビが頭上を旋回している。雑草が海風になびく。波の音と風の音。
ここにある音はたったそれだけ。
こんな気持ちのいい日は久しぶりだ。
上天気


12.決心

歩き回って目にするものは、かつて栄華を極めた物質文明のなれの果て。

自然を制覇し、抑圧した人間のエゴの数々。
時の流れは今、それを自然のもとに返そうとしている。
あるものは土に、あるものは水に、またあるものは風に・・・

この世界には、何とも言いようのない豊かさがある。
点在する廃墟は、時の流れをありのままに映している。
贅沢な世界だ。何もないが、何でもある。

もう、戻る気はなかった。
会社の地位やこれまで手に入れてきたもの全てを失っても、
この世界にいた方がいいと思った。

この土地で仕事を見つけ、日々をゆったりと過ごす。
衣食住が足りればそれでいい。
時間に追われ、自分を飾り立てる毎日はもうたくさんだ。
自分らしく生き、時の流れに逆らうことなく年月を重ねたい・・・

決めた。僕はこれからの一生をここで過ごす。
もう迷いはなかった・・新たな決意を胸に、僕は病院に足を向けた。

(第1章 おわり)

・後記
この物語は、「ヨコハマ買い出し紀行」の設定をベースにしています。
僕がいつのまにか置き去りにしてしまった大切なもの。「ヨコハマ・・・」にはそういうものが幾つもあります。
仕事がきつく、かなり滅入っていた頃「ヨコハマ・・・」に出会って、そのとき思ったことをもとにこの作品を書きました。

この物語は全12章構成で、これから毎月少しずつ先へ進んで行く予定です。

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